盂蘭盆会(2024年)
西願寺では下記のとおり「盂蘭盆会」をお勤めしますので、ご参詣くださいますようご案内申し上げます。
日時 2024年8月15日(木) 15時~16時30分
場所 西願寺 本堂
内容 読経(焼香)・正信偈おつとめ・住職のはなし
*法要にご参詣の際には、仏前にお志をお運びくださいますようお願い申し上げます。
盂蘭盆会の模様をYouTubeで配信しています。動画を通してお参りいただけます。
盂蘭盆会とは
他宗では精霊を迎え、仏壇に蓮の葉を敷き、さまざまな野菜や果物を供える風習がありますが、真宗ではそのようなことをする必要はありません。
お盆は、正式には「孟蘭盆会」といわれ、『仏説盂蘭盆経』に出てくる仏弟子目連尊者の物語に由来するといわれています。
目連が神通力を身につけてのち、これまで仏弟子としての成長を見守ってきた母が亡くなり、その恩に報いるためにその姿をたずねると、餓鬼道に堕ちて苦しんでいる母を見ることになります。そこで目連は食物を差し出します。しかし、母が手にすると食物は炎と化して食べることができなかったといわれています。
自分が母のためにささげたものが、炎となってしまうのを前に、神通力を得ながら母一人を救うことができない深い悲しみのなかで、目連は仏陀に教えを請います。すると仏陀は、目連に対して「汝一人のおよぶところにあらず」とさとし、「衆僧供養」をすすめられ、それによって母も救われるということを説かれました。衆僧とは、すべての人びとを等しくいつくしむ、仏陀のこころを生きる人びとです。その人びとを供養することをとおして、私たちが仏陀のこころに生かされていく一人となることです。自分一人の力をたのむならばその願いはまっとうすることはできないということ、そして単に自分の身内である親としてではなく、長いいのちの歴史、深いいのちのつながりをこの私にまで伝えていただいた人びとの恩に報いることを教えられました。そこに「汝一人のおよぶところではない」とさとされる仏陀のきびしい眼があります。共に教えに生きるものとなる時はじめて供養となることを伝えているのです。
ちなみに「孟蘭盆会」というのは古代インドの言葉である「ウランバナ」を漢字にあてたもので、「倒懸」と訳し、逆さに吊るされるような苦しみをあらわしているといわれています。日本では古く『日本書紀』の657年の項に「盂蘭盆会を設けた」と記されています。歴史が古いだけにこれまでいろいろと民間信仰とも結びつき、また地域によってもさまざまな行事が伝えられてきています。
私たちの長い歴史のいとなみのなかで、死は決して単に死んで終わりということではなく、いつも死者として私たち生者と共にあったのではないでしょうか。亡き人を縁としてはじめて知らされる世界があるのです。生老病死が一人の身の上に起こるひとつの出来事のように考えられていますが、そうではなくて人びとの深いつながりのなかでの出来事であるということ、そのことをあらためて見つめなおし、真宗の教えに遇う法会としてつとめられています。